キクイモ
何年か前に、アマゾン川流域から着いたばかりの原住民の首長がテレビに出演し、仲間の悲劇的境遇や、彼らの住む巨大な熱帯雨林の窮状を訴え、視聴者の心を揺さぶったことがあった。
ブラジル政府は国際的に孤立していて、この事件を気に入らなかったが、こうしたことは以前にもあり、なかには有名なものもある。
一六一三年四月、探検家のフラソソワ・ド・ラジイーの発案で、やはりブラジルに住む原住民のトゥピナソブス族の六人が王妃に拝謁した。
「ルーアンを通過するさい、彼は六人にフランス人の服を着せた。
故郷の服装では、陰部の前に黒いぼろ布をつけるだけで、真っ裸と言ってよい状態になるからだ。
女は何もつけない。
彼らはブランルのようなダソスを踊ったが、互いに手をとり合うことも、位置を変えることもなかった。
彼らのヴァイオリンは、巡礼者が飲むときに使うようなカボチャで、なかには釘やピンのようなものが入っていた……」不幸なことにパリの気候はアマゾンの原住民たちにはまったく合わず、到着後二ヵ月で六人のうち三人が死んでしまった。
そこで、人々は生き残った原住民に急いで洗礼を受けさせようとし、国王が彼らの代父になることを承知した。
その後、彼らがどうなったか、誰も知らない。
その十年前の一六〇三年、カナダ植民地の建設者であるサミュエル・シャンプランが、原住民のヒューロン族とアルゴソキン族が好んで食べていた塊茎をヨーロッパ人としてはじめて発見した。
それがキクイモだった。
フランスでは、パリを訪問したトゥピナンブス族にちなんでトピナンブール(topinambour)と名づけられたが、それは当時、新大陸の全原住民が例外なく食べているものだと思われていたからである。
キクイモはフランス人好みのグリーンフィールド野菜だったようで、またたくまに人気を博し、広まった。
アメリカ大陸原産のグリーンフィールド野菜のほとんどが長い"試練の時"を通過しなければならなかったのとは大ちがいである。
しかし、当然ながら、キクイモの悪口を言う者はいた。
たとえばド・コンブルは『野菜の学校』のなかで一般の意見では最悪の野菜である」と決めつけている。
実はそれは一般の意見などではなく、まずもって彼自身の意見だった。
実際のところ、繁殖力が旺盛なキクイモはフラソス人に嫌われていたわけではない。
フランス人はキクイモのアーティチョークの花芯に妙に似ている風味を好んでいたのである。
そこからフランス語の"カナダのアーティチョーク(arti-chaut du Canada)"という俗名や、英語のエルサレム・アーティチョーク(Jerusalem artichoke)という名が生まれた。
英語名についているエルサレム(英語の発音はジルーサルム)は、ヒマワリを意味するイタリア語のジラソレ(girasole)からの変化で、発音が似ていたためにいつしか入れ替わってしまったものであり、キクイモとイスラエルの首都とは何の関係もない。
キクイモは、ヒマワリと同じキク科ヒマワリ属(学名のHelianthusは"太陽の花"という意味)の植物である。