ジャガイモの布教者
一七八五年には旱越があり、八七年には豪雨が被害をもたらし、八八年には激しい嵐にみまわれ、八八年から八九年にかけての冬には異常な寒さと雨に苦しめられた。
飢謹のときの農村のようすは悲惨の一語につきる。
「何里も行くあいだ、人の姿はおろか、獣一匹、雀一羽さえ見えない。
村に入ると、まだ立っている家のなかは、人間の死体と動物の死骸でいっぱいになっている。
男、女、子供、作男、馬、豚、牛が……並ぶようにして、または重なり合って、死んでいる。
腹の病気かペストにかかって死んでしまったのだ。
死体は蛆がわき、鳥や狼や犬に食い荒らされている。
死者を埋葬する者も、涙を流す者もいないからだ……」一七八九年と一八三〇年と一八四八年にそれぞれ革命が起こっているが、それらを引き起こしたさまざまな原因のなかに、いずれの場合にも顔を出すものが一つあることを、歴史家たちが指摘している。
それは小麦価格の急騰である。
フランスでは、パンが高くなると火薬に火がつく。
こうしてジャガイモは飢饅や食料不足の"特効薬"と考えられるようになった。
しかし、実際に特効薬としての力を発揮させるには、パリから遠く離れた地方にまで栽培を定着させなければならない。
そこで共和国政府は"ジャガイモの布教者"を地方に急派した。
ノルマンディーのコー地方では、一七九三年九月の時点で、ジャガイモを見たことのある者はひとりもいなかった。
シャルル・ド・レクリューズがジャガイモについて記述してからすでに二百五年が経過していたというのにである。
別の地方に急派されたカタラという名の男は、まだついていた。
南仏アリエージュのある村で、さまざまに料理される"白いトリュフ"を発見したのである。