農民クラブの苦しみ
あらゆる種類のジャガイモ料理があらゆる種類のソースとともに出され、飲みものもジャガイモからつくったアルコールをベースにしたものだった。
晩餐の目的は明らかだった。
ジャガイモに好意的な世論をつくりあげるということである。
思惑どおり、これでジャガイモにあまり好意的ではなかった人々の偏見がとりのぞかれた。
こうしてベンジャミン・フラソクリン、ラヴォアジエ、ヴィルモラン、ブルソネらが、ジャガイモの熱心な推薦者となった。
オピニオソ・リーダー取込み作戦の成功によって、ジャガイモはついに長い下積み生活から脱し、熱狂的な支持を得るにいたった。
パルマソティエは、ジャガイモを"単なる民衆の気晴らし"と考えていたヴォルテールの意見をも変えることに成功している。
しかし、パルマンティエが第一に望んでいたことは、ときどき襲いかかってくる飢饅からフランスや世界を救うということだった。
十八世紀には、飢饅が起こるとまだ彩しい数の死者がでた。
そういうわけでパルマンティエは、製粉、パン製造、クリ、キクイモにも関心を示していた。
パルマンティエの尽力によって、ついにフランス人もジャガイモを無視することができなくなった。
しかし、長いあいだ無視してきたフラソス人にジャガイモの貴重さを真に教えることができるものは何か、パルマンティエにはわかっていた。
それは、この時代、革命から総裁政府期にかけてつづく食料不足である。
十七世紀と十八世紀をとおして、ヨーロッパのさまざまな国が飢謹と食料不足を何度も経験した。
フラソスでは、一七〇九年に歴史に永遠に残るきわめて深刻な飢饅が起こっている。
ルイ十四世の治世の終りは、冬が厳しく、農民たちの苦しみはたいへんなものだったのである。
一七二五年に新たな飢謹が起こり、ついで一七四〇年、五〇年、六〇年、六七年に食料不足が起こった。
一七八九年は、まず農作物が壊滅的な打撃を受けた年だが、もしそうでなかったら、これほど世界的に有名な年(フランス革命の年)にはならなかったかもしれない。
しかも、その直前の五年間には厳しいことがいろいろと起こっていたのだ。