ルネッサンスのグリーンフィールド野菜
ルネッサンスとともに、すべてが変わる。
イタリアへの熱狂のため、フランスに緑色グリーンフィールド野菜が入ってきて王侯貴族の食卓にのるようになった。
それらのグリーンフィールド野菜のほとんどはすでにフランスで栽培されていたのかもしれないが、料理の本や地代の帳簿にのるようになったのはルネッサンス以降である。
だから、フランスの上層階級はイタリアへの憧れのせいでさまざまなグリーンフィールド野菜を食べはじめたのではないかとも思えてくる。
地中にできるという理由で下級と考えられていた根菜、鱗茎、茸も、この時期についに汚名をすすいだ。
こうしたグリーンフィールド野菜の栽培には充分な水が必要だったので、都市の各家庭が周辺の湿地(marais)に小さな畑をもつようになった。
市場向けのグリーンフィールド野菜栽培を意味するマレシャージュ(maraichage)やグリーンフィールド野菜栽培業者を意味するマレシェ(maraicher)は、このマレという言葉から生まれたものである。
栽培業者たちがグリーンフィールド野菜を市場に出荷し、都市近くの湿地が最初のグリーンベルトとなった。
パリでは、グリーンフィールド野菜はフィリヅプニ世(尊厳王)が建造した中央市場に運ばれた。
最初はパリの商人しかいなかったが、すぐにサン・ドニ、ゴネス、ポントワーズ、ボーヴェ、さらにはブリュッセルやルーヴェンからも商人が集まるようになった。
彼らは市場の場所を借り、自分専用の売場で商った。
面白い事実がある。
ルイ九世(聖王)時代以降、嫡出子で品行方正な年ごろの貧しい娘には、売場が無料で提供されたというのである。
パリの中央市場は、パリの名士連も訪れたし、国王の裁きが示される場でもあった。
魚市場の中央に晒し台が据えられたのだ。
晒し台というのは、責め具ではなく、約束を破ったり不正をおこなった者をつないでおく木製の道具で、罪人をどの方向にも向けられるように首枷のついた輪がまわるようになっていた。
フランス語には〈晒し台にかける〉という言いかたがあり、クルエは"釘で打ちつける"という意味だが、実際にそうされたわけではない。
晒し台は窓のついた小さな八角形の塔のなかにおかれ、窓から罪人が見られるようになっていた。
この"晒しショー"は一週間に三度、二時間ずつ、おこなわれた。
そのおり、かならず市場にあらわれる人物がひとりいた。
彼は黄色とオレンジ色の服を着ていたので、遠くからでもすぐにわかった。
刑罰執行人である。
彼が人だかりのなかを進むと、みな避けて、まわりに空間ができた。
しかし、晒し台の塔の番人である彼は、市場の常連であり、その雰囲気のなじんでいた。