ジャガイモの栽培
ジャガイモの栽培は、このウィーンの皇帝庭園監督官を務めた有名な植物学老によって強く勧められ、ベルギーの園芸家たちによってつづけられ……われわれの畑から姿を消すということはもはや考えられない。
パルマンティエがまだ三歳のころ、わが国の町の市場にはジャガイモがすでにあふれていた」フランス革命の直前には、ベルギーだけでなく、当時たいへん貧しかったロレーヌ地方でもジャガイモがすでに栽培されていた。
しかし、だからといってジャガイモを大々的に広めたパルマンティエの功績が減じられることはない。
一七五七年、ハノーヴァーの軍隊の薬剤官だったアントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエは、飢えた兵隊たちがジャガイモを食べるのを目撃した。
フラソスに帰った彼は、一七六九年の飢饒のとき、ブザソソソのアカデミーに論文を提出し、ジャガイモを食料不足のさいの食べものとするよう提案して、賞を得た。
以後パルマンティエは全エネルギーを投入してジャガイモの栽培を広めようとし、フランス人、とくに最上流階級の人々を説得しようとした。
シャルル・ド・レクリューズとオリヴィエ・ド・セールのあとをひき継いだパルマソティエは、多数の論文を発表するとともに、巧みなメディア操作とも言えることを三つおこなって、ジャガイモの宣伝に努めた。
まず一七八五年八月二十四日、聖ルイの祝日の前日、国王を説得して、ヴェルサイユ宮殿での接見のおり、ボタン穴にジャガイモの花をさしてもらった。
それはフランスという王国で最高の効果が望める宣伝だった(ただ、一七八九年の革命で国王が処刑されてしまうので、すぐにこの種の宣伝そのものが成り立たなくなる)。
ついで一七八八年、サブロンの平原のパリ市門のあたり(現在のグラソド・アルメ街)にジャガイモを植え、昼間はずっと武装した兵隊に畑を厳重に守らせた。
しかし、夜は兵隊をひきあげさせ、警備を解いた。
すると、農民や好奇心旺盛の者がやってきて、ジャガイモをこっそり盗んでいき、自分たちで栽培しはじめた……。
塊茎を"禁断の実"と思わせる巧みな策略である。
"禁断の実"ほどうまそうに見えるものはない。
そして、パルマンティエの第三の戦略は、パリの高名な科学者たち全員にジャガイモの晩餐を供するということだった。