ジャガイモ
ジャガイモは正確に言うと根菜ではない。
根ではなく、地下の茎の先が肥大して塊茎となったものだからだ。
しかし、見ためは肥大した根なので、ここでは根菜ということにしておく。
ジャガイモの原産地はアンデス山脈で、アメリカ大陸原産のグリーンフィールド野菜の例に洩れず、ヨーロッパ、とくにフランスで広く食べられるようになるまでには相当な時間がかかった。
しかし、キクイモだけは例外で、十七世紀のはじめから驚くべき速さで広まった。
実はキクイモの原産地は南米ではなく北米であり、そこは以後の地球文明を支えるあらゆるものの発進地でありつづけることになる。
ジャガイモの歴史は、予想外な突発事によって話が次々に展開していく波瀾万丈な途方もない小説といった趣がある。
たとえぽ、十八世紀の終りにヨーロッパでジャガイモが人間の食べものとなって、飢謹の被害が減じられたが、その何十年かあとにはジャガイモ自体の病気によってアイルランドの飢謹が起こった。
いま存在するすべてのジャガイモは、リソネがソラヌム・トユベロスムという名で呼んだ、ただひとつの種から生まれたと主張する者と、原種はひとつだけではないと主張する者がいて、論争の決着はいつまでたってもつきそうにない。
しかし、ジャガイモが一五三二年にスペイン人たちによってペルーで発見されたという点については、異論をさしはさむ者はいないようだ。
それはフランシスコ・ピサロ率いるコンキスタドレスたちにペルーが征服されたときのことである。
一五三三年にペドロ・シエサ・デ・レオンがセビリアで出版した『ペルー年代記』のなかに、ジャガイモについての最初の記述がある。
パパ(ペルー人たちはジャガイモのことをそう呼んでいた)は、トウモロコシとともに彼らの基本食品となっていた。
アンデス山脈一帯に住んでいた彼らは、ジャガイモの巧みな保存法を知っていた。
七五%が水であるジャガイモの塊茎を、夜は寒気に、昼は酷熱にさらすという方法である。
この激烈な方法を数日つづけると、水気が抜け、大きなクル、、、ほどに縮み、硬くて軽い黒石のようになる。
食べるときは水につけてもどすだけでよい。
この巧みな保存法で、インカの人々は一年中ジャガイモを食べることができ、広大な帝国をつくるのに必要な遠征も可能になった。
しかし、トウモロコシにとって代わるということはジャガイモにはできなかった。
インカ帝国ではトウモロコシが神格化されていたからである。
ジャガイモは一五三五年ごろスペインに伝わり、当時ナポリ王国がスペイン領だったので、イタリアに急速に広まった。
一本の苗が万能薬として教皇ピウス四世に献上されている。
一五八六年、教皇特使がそれをベルギー南西部のモンスの町長フィリップ・ド・シヴリに与え、二年後、モンスの町長はそれからとれた塊茎をシャルル・ド・レクリューズに送った。
彼は北フランスのアラスの生まれだが、ウィーンの神聖ローマ皇帝マクシミリアンⅡ世の庭園の監督官を務めていたこともある。
このレクリューズがジャガイモを科学的に記述した最初の人間となった。